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<臼杵藩領上久所村田畑山林畝押絵図>
天保八年臼杵藩領内全域にわたり「田畑山林畝押絵図」と、これに添える
畝帳・水帳の作成方が命ぜられた。あわせて従来御免割帳とか
寄帳と呼んでいた年貢関係帳簿を、すべて「御年貢取立帳」という名称に統一
することにした。畝帳は竿継帳(竿鑓・竿続長ともいう)と呼ばれた。
「天保地所改め」(地押しともいう)と呼ばれるこの作業は明らかに年貢の増徴を目
的とした徹底的な土地の実地調査(検地)従来竿入れのなかった切添新田畑な
どを含むすべての耕地・山林を一筆ごとに厳密に測量調査して絵図面に落とし、
同時に竿継長・水帳に記入して照合できるようにしたのである。
測量には地押役人が各村、各字ごとの字名を書いた一間ほどの札を立て、さらにそのうちを
一筆ごとに耕作人の名を記した札を立て測量した。各百姓の家の戸口脇には各
人の持高を書いた札が立てられた。
絵図は村ごとに作成され各字の一筆ごとに
「い壱、い弐」というように地番が付けられ、あざが変わるたびに「いろは・
・・」が変えられた。竿継帳はこの絵図と対照できるよう字・番号・畝数・耕
作人が記載され、また字ごとに合計畝数などが書き込まれた。
(大分県史 近世篇 I-昭和58年 大分県発行- より)
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<慶長十年府内絵図>
関が原の合戦の後、城主となった竹中重利は、直ちに府内城の修復並びに城下町建設に着手しました。
慶長十年(1605年)、惣構掘(そうかまえぼり)と呼ばれる外堀が完成し、当絵図はこの年の作とされている。
400年前の府内城下町は現在の大分市街とほぼ同規模で、後年貝原益軒が「豊後機構」に記したとおり、町はす頗る広かった。
当絵図は約2m四方の大作で、豊富な情報が記されており、当時の状況を知る上でも貴重な歴史的資料となっている。
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<豊後中津城御領分絵図>
安政二年(1855年)、領地が絵図のように分配されているが、何年ごろから領地が、このようになったかは、定かではない。
ただ、藩領が中津・時枝・宇佐宮・島原と享保の時代に存在していたことは、『大分県の歴史(県史44)山川出版社』に記載されている。
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<豊前国宇佐郡下毛郡両郡縮図>
1600年代に刊行されたものである。
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<豊後国絵図>
刊行年は不明。
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<天保改正豊後国絵図>
天保十三年(1842年)刊行。
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<通覧図説接壌地図> 林 子平 著 5枚
『三国通覧図説』で解説された地図が掲載されている。
朝鮮・琉球・蝦夷等わが国に近接している土地を記録した地図である。
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